末っ子で生まれる
茨城県で宝石商を営む父と専業主婦の母のもとに生まれる。
音楽好きの両親のもと
三姉妹の末っ子として育つ。
物心ついた時には自力でピアノの椅子によじ登り、家にあったピアノを無心で弾いていた。
壮絶な人生
飼っていた犬が外に飛び出してしまうのを止めようと思い、鉄の門を閉めた。
門は重かったがひとたび力を加えると滑車が滑らかに動き加速して閉まった。
次の瞬間指が飛んだ。
あっ!と思った瞬間、激痛が走った。
自分の指を見ると血だらけだった。
あたりに幼児の大声が響きわたった。
庭がかなり広かったので
子供が外で遊ぶ声など普段は家の中まで聞こえないのだが、常軌を逸した声に、家にいた母が裸足で走ってくるのが見えた。
母は、血まみれの私の手を見てすぐに、ことの成り行きを理解した。
私の指どうなるの?
ぽろんと転がっている私の指の一部を拾い、エプロンで抑えた。
母に抱えられ父の運転で急いで病院に。
細胞と神経が死なないうちに縫合しなければならない一刻を争う状況に。
麻酔が効くのを待っている暇はないということで、すぐに手術が始まった。
暴れる私、それを必死に抑える看護師さん、大きな泣き声。母が私に声をかけ続けていた。
壮絶人生の幕開けだった。
もはやピアノどころではなくなった。
そのころの写真を見ると、包帯姿の手を気にする私がいた。
怪我のため周りが何でも手を出しがちだったが、それに抵抗しひとりでできることに喜びを感じた。
内気で人前に出ることを極端に嫌がる性格だったが、姉達が可愛がってくれて屈託のない性格の子供だった 。
完治!ピアノが習える!
やがて時が経ち、幸いにも指の怪我は完治した。
もう小学校4年生になっていた。
ピアノを諦めきれずに、 父の店の近くのピアノ教室を、思いきって、たった一人で訪問した。初回レッスンの6/3金曜日が待ち遠しかったのを今でも覚えている。先生が素敵で、先生みたいになりたいと思った。
友達が先生
4年生ともなれば周りの子達はピアノを習っていて、かなり上達していた
その中で初心者は私一人。
習っていたテキストはまだ簡単な曲で正直つまらなかった。
友達が素敵に弾くのに憧れて、友達から教えてもらうように。
友達先生は5人。
友達の家に遊びに行けば、ピアノがあって、みんな教えるのが嬉しいのか、丁寧に教えてくれた。
友達先生のおかげで、どんどん私は上達しレパートリーも増えた。
弾く事が嬉しくてたまらなかった。
心の拠り所はピアノ
中学では内気な私はピアノが弾けることを秘密にしていた。
中学3年生の時にとうとう友人の口から漏れ、あろうことか伴奏者になってしまった。合唱コンクールで『消えた八月』を伴奏。名曲に感動した。冬の体育館で手が冷たいと言ったら、クラスのみんなが自分のホッカイロや手袋を差し出してくれた時は胸が熱くなった。
中学時代は、心が沈みがちだった記憶がある。多感な時期だったからだと思う。
心の拠り所はピアノだった。「ピアノは自分にとって無くてはならない」この頃はっきりと自覚した。
合唱伴奏で先生友達が心から喜んでくれたことが、今も嬉しい思い出。
音大受験か?就職か?
勉強は真面目にしていたおかげて、偏差値の高い高校を勧められたが通学時間がかかった。
習い始めたのも遅いから、少しでも上手くなりたい、往復の時間を練習に当てたいと考え、家の近くの高校を受験。
高校に進学し、進路について考える 。
好きなピアノで行くか?
就職するか?
ピアノへの思いがどんどん浮上し、音大受験をギリギリまで考えたが、周りに音楽は趣味でもできるよと諭され、就職を選んだ。
ピアノのレッスンはその後も週2で継続した
最高の環境
勉強を頑張り、就活に望み、信越化学に合格。研究所に配属された。
理系は苦手だったが、フラスコ、ビーカー、毎日が理科実験。思いのほか新鮮で楽しかった。
会社の人は笑顔の素敵な人ばかりで、優しくお互いに助けあう明るく活気に満ちた社風があった。
この会社で良かった、心からそう思った。
心の中の声
会社生活に慣れてくると、仕事から帰宅して、何時間ピアノを練習し、休日にはピアノのレッスンに通う。
そんな生活リズムが自分の中でできていった 。
充実していた・・・
それと同時に自分の心の中で、ある声が聞こえ出した。
「ピアノをもっと深く学びたい」
私は何度も何度も、その心の声を聴かないようにかき消した。
仕事に集中しようと思えば思うほど
自分を騙しているようでかえって辛くなる。しまいにはとうとう心の声が止むことがなくなった。
「もう限界。自分に嘘をつくのは、やめよう」
私はある日、決心した 。
「音楽の学校に行きたい!」
私は音大の資料を読みあさるようになった
今の私で行けるところはどこだろう ?
20歳の夏だった。
顔に鍵盤の跡
それから猛勉強した。
練習時間は平日の仕事の日でも5時間を越えた。
朝練中、寝てしまい顔に鍵盤の跡がついたまま出勤したこともあった・・・
自分の中で決心は固まっていたが、唯一、就職できたと喜んでいた母をがっかりさせてしまうかもしれない事が心配だった。
しかし私の意思の固さ、日頃の努力を見ていた母は賛成してくれた。
家族も全面的に応援してくれた。
そして2年勤めた会社を辞めた。
思い描いた環境
そんなことがあり尚美ミュージックカレッジに入学
副科でチェロを始める。。。
練習・勉強しながら合間に学外の講座にも参加し、ピアノやオーケストラ室内楽・ジャズなどコンサートも頻繁に出かけた。これこそが思い描いた環境だった。
音楽以外の社会にも触れたいと思い、
長期の休日はホテル椿山荘東京、フォーシーズンズホテルでブライダルの接客をしたり、巫女さんをしたのは貴重な経験だった。
卒業後音楽教室での仕事をしつつ
休日は茨城県から横浜までレッスンに通った。
好奇心が爆発
オーケストラに入団しチェロで参加
指揮者それぞれに個性や、理想とする音楽があり、楽器に指示をだし緻密に音楽を創っていく過程や、曲の解釈を含め練習中に展開される話しに惹き込まれ、ワクワクが止まらなかった。
舞台では音の響きに包まれ、背後のコントラバスの音と共に床から伝わる地鳴りのような響きの振動に快感と感動を覚えた。
フラメンコで地殻変動
2010年フラメンコでLADANZAに7年在籍
コンテンポラリーダンスを
キューバのNarciso Medina氏 に師事
2017年までに渋谷さくらホールでの4度の公演の他にタブラオ出演を果たす。
踊りの世界は完全なる体育会系の縦社会と知る・・・。
そして「自分の殻をやぶれ!」と何度も激を飛ばされて、何という所に来てしまったんだと躊躇い泣きながら踊った。
顔の表情が踊っていないと言っては、また先生の厳しい声がとんでくる。
レッスンは厳しかったが、フラメンコに魅了され身一つで表現する事の凄さを思い知らされたことは、それまで内気でどこか自信なさげだった自分の内面に大きな地殻変動をもたらした。
2017年~2020年
Carmera Greco・Tamar Gonzalez・
Carmen Torres ・Nazaret Oliva 他、
スペイン人講師陣のレッスンで刺激を受ける
スペイン人の、ストレートな感情表現や、
はっきりした物言いに初めは戸惑ったが、
厳しさと深い愛情をもって熱意を存分に示して、エネルギーを惜しまず教えてくれた。
今思うことは・・・
ピアノ以外の楽器や踊りを通して様々な角度から経験することで、ピアノを弾く上での新しい発見が尽きず、好奇心を刺激される。
自分の内面で起こる化学反応を楽しみながら日々邁進してきた。
それらの経験から思った事は、テクニックはもちろん大切にするべき要素という事を踏まえた上で、しかしそれだけにとらわれず、心から何かを表現したい、今できる自分の精一杯を表現するのだと強く思う気持ちがまず大切ということ。
日々のレッスンでは、お一人お一人を見つめながら、ピアノを通して自信に繋がるようなメッセージを伝え続けていきたい。
そしてピアノが生徒の自己表現のひとつになってほしいと心から願いつつ、日々のレッスンを行っています。